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お茶のミニ知識

お茶の歴史

神農帝

■中国の神話の世界では、今から5000年前、神農帝が人類で初めてお茶を口にしたとされています。史料としては紀元前59年(前漢の時代)に王褒が『どう約』という使用人との労働契約書に「お茶を煮る」「武陽に茶を買う」と記載されているのが世界で最も古い茶の記録です。中国最古の農書といわれる『斉民容術』にも茶樹についての記載があります。中国では2000年も前からお茶が売買されており、それ以前から飲まれていたと推察されます。お茶の原産地と云うと中国西南部の雲南省からインドアッサム地方付近の山地と考えられています。雲南省では食材料として飲んだり食べたり利用してきました。茶は南北朝時代には嗜好飲料として飲まれていました、中国が統一され南方では飲茶が盛んになりました。北方では唐の玄宗皇帝の時代になって飲茶が流行しました。唐代には製法から飲み方まで紹介した陸羽よる『茶経』が著されました。16世紀にはヨーロッパの国々がアジアに進出してきて、茶の広がる要因になりました。陸路では東には北京、朝鮮、日本 西にはチベットからインドを経て中近東へ、海路ではイギリス、オランダ、ポルトガルなど当時の列強がインドや中国などを拠点に力を背景に交易してヨーロッパにも茶が伝わりました。

茶の古木

■中国から日本にお茶が伝わったのはいつでしょうか?茶について最も古い記録は『日本後紀』に有ります。弘仁6年(815年)4月22日(旧暦)に嵯峨天皇一行が近江(滋賀県)の梵釈寺に立ち寄った際、大僧都永忠がお茶を献じたと記載されています。永忠(743~816)は奈良末期に唐に渡り、30年間も唐で過ごし喫茶法を学んだとされている僧です。同じ年の6月に嵯峨天皇は大和、山城、摂津、河内、和泉など畿内や近江、丹波、播磨など茶樹を栽培させ、毎年献上することを命令しました。また天平元年聖武天皇が自分の誕生会に100人の僧を宮廷に招き2日目に100人の僧に茶を与えたという伝説があります。1187年宋に渡った栄西禅師は4年後に帰国して茶の種子を持ち帰り、栽培、製茶、貯蔵しその飲み方を広めました。そして1211年日本初の『喫茶養生記』を著しました。医学書として書かれた物で薬としてのお茶の効能を述べています。時に承元5年(1211年)なんと栄西71歳でした。栄西はチャの種子を明恵上人に贈り、栂尾を皮切りに宇治、狭山など各地に蒔かれました。当時静岡県では興津の清見寺に植えられたということです。静岡県では静岡の茶祖と云われている聖一国師が種を蒔き栽培したのが最初だと云われています。聖一国師は静岡市大川に生まれて、35歳の時7年間に宋に渡り帰国してふるさとに帰った。時に中国から持ち帰った種子を足久保に蒔いたと伝えられています。

■鎌倉時代には餅茶や団茶を煮出してから飲む方法から「抹茶法」といわれるものになりました。抹茶法とは「てん」といわれる薬研や臼を使って茶葉を細かく砕き、沸騰した湯の中に入れてかき混ぜて飲む方法です。抹茶に近い飲み方ですが抹茶ほどパウダー状にならなかったと思われます。禅宗の僧たちが修行中、眠気覚ましのために飲んだという事です。その後、室町時代になると侘び、寂びの文化の台頭とともに「侘び茶」の始祖といわれる村田珠光(1423~1502)は茶と禅の精神の統一を主張して「四畳半の茶の湯」を完成しました。珠光の茶は心の静けさを求めたものでした。その後、堺の豪商出身の武野紹?に引き継がれ門下には今井宗久、津田宗及そして千利休を輩出しました。その後、千利休は織田信長から豊臣秀吉に仕えました。その間、弟子を育て、茶の湯を「道」として完成させました。千利休の「侘び茶の精神」は代々受け継がれて「三千家」により現代に伝えられています。

■江戸時代に入ると茶の湯は幕府の行事に取り入られ武家社会に定着していきました。そんな中多くの大名に茶の湯を指南する「大名茶人」の古田織部という信長・秀吉に仕え、利休に支持しましたが江戸幕府の時代になると駿府に出向いて家康に点茶をしたり、2代将軍の秀忠にも作法を教え、大名茶人として確固たる地位を築きました。この頃古文書などで全国にお茶に関する記述が残っていてお茶が全国で栽培が進んでいる事を表しています。江戸時代にはお茶の流通の形態もはっきりしてきました。問屋、仲買、小売商など。元禄10年(1697)発刊の『本朝食鑑』には最近江戸の風習に婦女が朝飯の前に先んず煎茶を数杯飲むと記されています。臨済宗・曹洞宗の高僧月海が「売茶翁」と名乗り、享保20年(1735)に京都鴨川の橋のたもとに通仙亭を開き、お茶を売り始めました。自分で煎茶道具を持ち運びお茶の楽しみかたを広めました。煎茶道中興の祖といわれています。

永谷宗円

■お茶の製法は全国各地に広がっていきました。京都では早くから蒸し製法の抹茶が作られており、16世紀後半には被覆栽培も誕生しました。この栽培方法は特別の家系だけ許されており、抹茶作りの特権が与えられていました。そんな中でも宇治で永谷宗円(1681~1778)はそれまでの釜入り製法やてん茶製法に創意工夫をして新しい煎茶の製法を考案しました。今の煎茶の製法です。新芽を蒸気で蒸して鮮やかな緑色を保つとともに味も香りも数段上のお茶ができました。それを江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛が気に入って広く販売しました。江戸時代は鎖国をしており、唯一長崎の出島だけ開港していました。慶長14年(1609)オランダ東インド会社が長崎の平戸で日本との貿易を始めました。慶長15年(1610)に日本のお茶が初めてヨーロッパに輸出されました。その後嘉永6年(1853)にペリー提督の来港以来、安政5年(1858)に日本はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダと修好通商条約を締結して開国を宣言しました。安政6年(1859)から生糸とお茶の輸出を始めました。明治時代のお茶の輸出先は60%以上アメリカが占めていました。元々アメリカはコーヒーの消費国ですのでお茶類はインド・セイロン・中国とも競合して厳しい物が有りました。当時アメリカでは緑茶にミルクや砂糖を入れて飲んでいたようです。

高林謙三

■明治から大正にかけて急増する需要に応えるためお茶の生産技術の近代化に努めました。高林謙三(1832~1901)は製茶の近代化のために製茶機械を開発してそれまでお茶を手で揉むのを機械でできるように「粗揉機」を始めいろんな製造機械を開発しました。それにより衛生的に楽に大量に製造できるようになりました。また茶園ではそれまで自然の仕立て手摘みだったものを明治16年(1883)以降、茶樹の表面を均一にする剪枝の方法が開発され、樹形はかまぼこ型になり、はさみ刈りが出来るようになり摘採の効率が格段に向上するようになりました。また大正4年に内田三平(1879~1950)考案の手ばさみで摘採の効率が5~10倍向上して労力も軽減しました。あと一つ茶業界にとって重大な発見が有りました。それは「やぶきた」種の誕生です。その品種を選抜したのは品種改良のパイオニアの杉山彦三郎(1857~1941)です。自ら茶園を経営しながら品種改良に取り組んで明治41年(1908)に竹藪を開墾した茶園から「やぶきた」を選抜しました。「やぶきた」は品質・収量・耐寒性・耐病性ともに優れた品種のお茶です。その後「やぶきた」の栽培は全国に広がりました。

■日本の輸出の主力商品であったお茶は明治後期には減少傾向になりました。その原因はインド、セイロンの紅茶がアメリカ市場でのシェアを伸ばし、日本の輸出の主力が繊維製品に移行したことも一因でした。その当時ロシアや北アフリカ諸国、アフガニスタンなどに販路を開拓しました。しかしながらその後、特にロシアとの関係悪化や政治情勢の変化により輸出は減少していきました。

■第二次世界大戦後、日本は廃墟の中から立ち上がるため食料生産が優先され、終戦直後の荒茶の生産量は2万トン台前半と明治20年頃の水準まで落ち込んでしまいました。昭和25年(1950)から徐々に生産が増え始めて昭和29年(1954)には荒茶の生産量が6万トン台まで回復して輸出量が1万7000トンまでになりました。しかしながらし昭和40年(1965)になると中国、台湾などの進出によりだんだん減少していきました。1960年台になると高度成長と高級志向がトレンドになりお茶の国内消費量が増え続け、輸出は更に減少していきました。昭和41年(1966)には緑茶の輸入量が初めて輸出量を上回りました。昭和50年(1975)にはお茶の生産量が10万5500トンに達し過去最高を記録して茶業界は活況にあふれました。現在では生産量は9万トン前後、消費量10~11万トンに落ち着いておりますが近年、緑茶の世界的ブームによりやや増加をしてきています。1980年以降は昭和57年(1982)に缶入りのお茶が開発販売され、平成2年(1990)にはペットボトルのお茶も販売され、平成8年(1996)にはペットボトルの小型化が進み、平成19(2007)には250万キロリットルとなりわずか10年で5倍となっています。近年、緑茶が1万から1万5000トン、紅茶が1万5000トン前後、ウーロン茶が2万トンで合計約5万トンが毎年輸入されています。実に日本の茶の総生産量の約半分に当たります。この輸入茶の殆どは茶系飲料の原料になると考えられています。ペットボトルのお茶もライフスタイルの変化などにより、簡単に飲めるお茶として確固たる地位を築いてきました。緑茶もティーバッグやインスタントのパウダー茶などはじめとした加工品に業務用は特にシフトしてきています。最近はお茶の成分のカテキンを使った特定保健飲料や日用品の開発も行われています。また今後の生活にあった品種の改良とさらなるお茶製品の開発が待たれます。

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