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お茶のコラム

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お茶に関する素朴な疑問

お客様から寄せられたお茶に関する素朴な疑問の話あれこれです。軽く読み流していただければ幸いに思います。宜しくお願いします。

【はじめに】

毎日何もないように飲んでいる日本茶ですが、その昔に高僧が薬として持ち帰ったお茶ですが、当時から江戸時代頃まで一般庶民の口にはなかなか入りませんでした。明治以降に茶畑が盛んに作られるようになり、それ以降どこのご家庭でも広く飲まれるようになりました。日常茶飯事という言葉があるくらい生活に溶け込むようになりました。時代は流れてペットボトルのお茶や水や空気まで普通に買う時代になりました。価値観も変わり砂糖の入っていない飲料やサプリがもてはやされ、コンビニではショーケースに一杯ペットボトルのお茶や健康飲料が並んでいます。そんな中でお茶の成分も研究され、いろんな機能的な成分が有ることがわかって来まして、そう言うことで特保のお茶も販売される様になりました。これからもお茶の機能的な成分の解明が進んでいくものと思われます。今後に期待したいと思います。

【お茶を摘む時期の味の違い】

お茶を摘む時期によって味が違います。若く柔らかいうちに摘んだお茶と大きく開いて堅くなってから摘んだお茶では成分が違うからです。茶葉は成長するに従って「カテキン類」「アミノ酸」「カフェイン」などが減少して食物繊維と糖類が増加します。食物繊維が増えることは葉が堅くなることでお茶にしたときに成分が溶けにくくなります。従って早く摘んだ若い茶葉の方がうま味成分が多く、かつ成分が溶けやすく、おいしいお茶ができます。

【山間地のお茶はなぜおいしい】

昔から銘茶の産地は川の上流域の山間地で有名なところがあります。なぜ山間地のお茶はおいしいのでしょうか? 山間地は平地と比べる掛川茶畑と日照時間が短く、平均気温が低く朝晩の気温差も大きいところが多いです。そのため新芽の成長が遅く、新茶の時期が遅れますが新芽がゆっくり成長するために、うまみ成分が時間をかけて醸成され、また日照時間が短いためカテキン類が少なく、アミノ酸類が多くなる傾向があります。従って苦み、渋みがおさられ、うま味・甘みが多い茶葉に仕上がります。またあと一つの特徴は「山のお茶」特有の強い香気が有ります。

【高いお茶ほどおいしいか】

お客様からお茶を買うときにお値段が高ければおいしいお茶でしょうかとご質問されることが有ります。確かに高級茶になればなるほどうま味の成分のアミノ酸が多いお茶になります。最近は近赤外線分析装置によってお茶のアミノ酸の成分量が簡単に測定され、多い物ほど高値で取引されます。しかしアミノ酸が多ければそれだけですべてのお客様にとっておいしく感じるお茶でしょうか? たとえばアミノ酸がきわめて多い玉露やかぶせのお茶の濃厚なうま味は「海苔」の様な味がします。その甘露は人によっては非常においしく珍重されますが、慣れないお客様にとってはまずい生臭いと感じる方もいらっしゃいます。逆に下級茶になればなるほど、あっさりしてうま味が少なく、苦みや渋みが増えてきます。従っえてお客様にとってお値段を抜きにして「うま味」と「苦み」や「渋み」のバランスをどの辺でお感じになるかがポイントになると思います。お客様に合った物が最適なお茶だと思います。いろんな価格帯のお茶をお試しいただいてご自分にあったお茶をお選び下さい。

【古くなったお茶はどうする】

最近のお茶製品は変質の防止のためにアルミ袋や缶入れで真空にして窒素充填した物が有りますが賞味期限を過ぎた物でも冷蔵庫に入れてあれば賞味期限を過ぎた物でも半年位はご使用になれます。封を切ったお茶は湿気を吸っていたり酸化している事もありますのでその場合はホットプレートやフライパンにアルミホイルなどを敷いて110~120℃くらいの温度でかき回しながら加熱し香ばしい香りがしてきたら火を止めて下さい。そのまま置いておきますと余熱でかなり褐色になりますので早めに下ろして下さい。香ばしい自家製のほうじ茶ができます。

【お茶は高いか】

良いお茶は高いと云われますが本当でしょうか?上級なお茶は100g1000円以上しますが、ブレンドコーヒーは100g300~400円です。重量あたりで計算するとお茶の方が高いですが。一杯あたりのコストではどうでしょうか? お茶は一杯あたり茶葉を3gほど使います。100g1000円のお茶だと30円になります。コーヒーは一杯あたり10gの豆が必要なので100g300円のコーヒーなら30円になります。コストだけでは同じですが、良いお茶は3~4煎おいしく飲めますので30円÷3=10円になり、よいお茶でも決してお高くなりません。

【緑茶の色は茶色?】

日本人は色を表現するのに自然界に有る物の色をそのまま云います。桃色、うぐいす色、空色、水色、灰色などなど・・・それらに対して赤掛川茶畑色、緑色、黄色などは元々中国の漢字を意味する言葉を使っています。それでは本題に戻りますが緑茶は急須で入れてもキレイな緑色をしていますが、こぼれたお茶などを拭いた布巾を暫くおくと色が褐色になります。その色がまさに茶色になります。あと一つ理由をあげると昔から庶民が飲んでいたお茶は茶葉を摘んで直に釜に入れて炒ります。そしてすぐむしろなどに広げてさまして天日で乾燥させます。できたお茶は黒っぽい色をしていたそうです。お湯で出しても赤かったり、黄色をしていたり決して緑色に出なかったそうです。その長い歴史的な流れの中で茶色という色の概念が定着したと考えられます。今のようにキレイな緑色のお茶の作り方(茶葉を蒸気で蒸して乾燥して仕上げる製造方法)は江戸時代の中期以降だそうです。

【お水でお茶の味が変わる?】

昔からお茶には軟水が良いと言われてきました。水の硬度は、水に含まれるカルシウム塩とマグネシウム塩の総量を炭酸カルシウムの量に換算し直して示します。水1リットル中に炭酸カルシウムが1mgあるものを硬度1とします。そして、硬度200以上を硬水、硬度100以下を軟水と呼んでいます。日本の水の硬度は20~80程度のものが多く、ヨーロッパの水は200~400のものが多いようです。また、沸騰させると硬度が下がる一時硬水と、ヨーロッパの水のように沸騰してもあまり下がらない永久硬水とがあります。軟水でお茶を入れると、茶の成分がよく抽出され、旨味、渋味、苦味がバランスよく出て、日本茶本来の味を引き出します。しかし、硬度が低すぎる(10以下)と苦渋味を強く感じるようになり日本茶には適さなくなります。日本茶には硬度50~80程度の水が適しています。お茶は水によりビックリする程、味が変わることがあります。違うお水でお茶を味わうのも日本茶の楽しみ方のひとつです。ただし、硬度が高すぎると、味は淡白になり、水色は無色に近くなります。紅茶では軟水がよく、300程度の硬水だと水色が暗色になります。ウーロン茶はどんな水でも影響は受けにくいようです。結論は日本の水は各種のお茶に相性がよいといえます。


お茶のルーツ

■ 中国の神話の世界では、今から5000年前、神農帝が人類で初めてお茶を口にしたとされています。史料としては紀元前59年(前漢の時代)に王褒が『どう約』という使用人との労働契約書に「お茶を煮る」「武陽に茶を買う」と記載されているのが世界で最も古い茶の記録です。中国最古の農書といわれる『斉民容術』にも茶樹についての記載があります。中国では2000年も前からお茶が売買されており、それ以前から飲まれていたと推察されます。お茶の原産地と云うと中国西南部の雲南省からインドアッサム地方付近の山地と考えられています。雲南省では食材料として飲んだり食べたり利用してきました。茶は南北朝時代には嗜好飲料として飲まれていました、中国が統一され南方では飲茶が盛んになりました。北方では唐の玄宗皇帝の時代になって飲茶が流行しました。唐代には製法から飲み方まで紹介した陸羽よる『茶経』が著されました。16世紀にはヨーロッパの国々がアジアに進出してきて、茶の広がる要因になりました。陸路では東には北京、朝鮮、日本 西にはチベットからインドを経て中近東へ、海路ではイギリス、オランダ、ポルトガルなど当時の列強がインドや中国などを拠点に力を背景に交易してヨーロッパにも茶が伝わりました。

■ 中国から日本にお茶が伝わったのはいつでしょうか? 茶について最も古い記録は『日本後紀』に有ります。弘仁6年(815年)4月22日(旧暦)に嵯峨天皇一行が近江(滋賀県)の梵釈寺に立ち寄った際、大僧都永忠がお茶を献じたと記載されています。永忠(743~816)は奈良末期に唐に渡り、30年間も唐で過ごし喫茶法を学んだとされている僧です。同じ年の6月に嵯峨天皇は大和、山城、摂津、河内、和泉など畿内や近江、丹波、播磨など茶樹を栽培させ、毎年献上することを命令しました。また天平元年聖武天皇が自分の誕生会に100人の僧を宮廷に招き2日目に100人の僧に茶を与えたという伝説があります。1187年宋に渡った栄西禅師は4年後に帰国して茶の種子を持ち帰り、栽培、製茶、貯蔵しその飲み方を広めました。そして1211年日本初の『喫茶養生記』を著しました。医学書として書かれた物で薬としてのお茶の効能を述べています。時に承元5年(1211年)なんと栄西71歳でした。栄西はチャの種子を明恵上人に贈り、栂尾を皮切りに宇治、狭山など各地に蒔かれました。当時静岡県では興津の清見寺に植えられたということです。静岡県では静岡の茶祖と云われている聖一国師が種を蒔き栽培したのが最初だと云われています。聖一国師は静岡市大川に生まれて、35歳の時7年間に宋に渡り帰国してふるさとに帰った。時に中国から持ち帰った種子を足久保に蒔いたと伝えられています。

■ 鎌倉時代には餅茶や団茶を煮出してから飲む方法から「抹茶法」といわれるものになりました。抹茶法とは「てん」といわれる薬研や臼を使って茶葉を細かく砕き、沸騰した湯の中に入れてかき混ぜて飲む方法です。抹茶に近い飲み方ですが抹茶ほどパウダー状にならなかったと思われます。禅宗の僧たちが修行中、眠気覚ましのために飲んだという事です。その後、室町時代になると侘び、寂びの文化の台頭とともに「侘び茶」の始祖といわれる村田珠光(1423~1502)は茶と禅の精神の統一を主張して「四畳半の茶の湯」を完成しました。珠光の茶は心の静けさを求めたものでした。その後、堺の豪商出身の武野紹?に引き継がれ門下には今井宗久、津田宗及そして千利休を輩出しました。その後、千利休は織田信長から豊臣秀吉に仕えました。その間、弟子を育て、茶の湯を「道」として完成させました。千利休の「侘び茶の精神」は代々受け継がれて「三千家」により現代に伝えられています。

■ 江戸時代に入ると茶の湯は幕府の行事に取り入られ武家社会に定着していきました。そんな中多くの大名に茶の湯を指南する「大名茶人」の古田織部という信長・秀吉に仕え、利休に支持しましたが江戸幕府の時代になると駿府に出向いて家康に点茶をしたり、2代将軍の秀忠にも作法を教え、大名茶人として確固たる地位を築きました。この頃古文書などで全国にお茶に関する記述が残っていてお茶が全国で栽培が進んでいる事を表しています。江戸時代にはお茶の流通の形態もはっきりしてきました。問屋、仲買、小売商など。元禄10年(1697)発刊の『本朝食鑑』には最近江戸の風習に婦女が朝飯の前に先んず煎茶を数杯飲むと記されています。臨済宗・曹洞宗の高僧月海が「売茶翁」と名乗り、享保20年(1735)に京都鴨川の橋のたもとに通仙亭を開き、お茶を売り始めました。自分で煎茶道具を持ち運びお茶の楽しみかたを広めました。煎茶道中興の祖といわれています。 永谷宗円お茶の製法は全国各地に広がっていきました。京都では早くから蒸し製法の抹茶が作られており、16世紀後半には被覆栽培も誕生しました。この栽培方法は特別の家系だけ許されており、抹茶作りの特権が与えられていました。そんな中でも宇治で永谷宗円(1681~1778)はそれまでの釜入り製法やてん茶製法に創意工夫をして新しい煎茶の製法を考案しました。今の煎茶の製法です。新芽を蒸気で蒸して鮮やかな緑色を保つとともに味も香りも数段上のお茶ができました。それを江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛が気に入って広く販売しました。江戸時代は鎖国をしており、唯一長崎の出島だけ開港していました。慶長14年(1609)オランダ東インド会社が長崎の平戸で日本との貿易を始めました。慶長15年(1610)に日本のお茶が初めてヨーロッパに輸出されました。その後嘉永6年(1853)にペリー提督の来港以来、安政5年(1858)に日本はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、オランダと修好通商条約を締結して開国を宣言しました。安政6年(1859)から生糸とお茶の輸出を始めました。明治時代のお茶の輸出先は60%以上アメリカが占めていました。元々アメリカはコーヒーの消費国ですのでお茶類はインド・セイロン・中国とも競合して厳しい物が有りました。当時アメリカでは緑茶にミルクや砂糖を入れて飲んでいたようです。

■ 明治から大正にかけて急増する需要に応えるためお茶の生産技術の近代化に努めました。高林謙三(1832~1901)は製茶の近代化のために製茶機械を開発してそれまでお茶を手で揉むのを機械でできるように「粗揉機」を始めいろんな製造機械を開発しました。それにより衛生的に楽に大量に製造できるようになりました。また茶園ではそれまで自然の仕立て手摘みだったものを明治16年(1883)以降、茶樹の表面を均一にする剪枝の方法が開発され、樹形はかまぼこ型になり、はさみ刈りが出来るようになり摘採の効率が格段に向上するようになりました。また大正4年に内田三平(1879~1950)考案の手ばさみで摘採の効率が5~10倍向上して労力も軽減しました。あと一つ茶業界にとって重大な発見が有りました。それは「やぶきた」種の誕生です。その品種を選抜したのは品種改良のパイオニアの杉山彦三郎(1857~1941)です。自ら茶園を経営しながら品種改良に取り組んで明治41年(1908)に竹藪を開墾した茶園から「やぶきた」を選抜しました。「やぶきた」は品質・収量・耐寒性・耐病性ともに優れた品種のお茶です。その後「やぶきた」の栽培は全国に広がりました。

■ 日本の輸出の主力商品であったお茶は明治後期には減少傾向になりました。その原因はインド、セイロンの紅茶がアメリカ市場でのシェアを伸ばし、日本の輸出の主力が繊維製品に移行したことも一因でした。その当時ロシアや北アフリカ諸国、アフガニスタンなどに販路を開拓しました。しかしながらその後、特にロシアとの関係悪化や政治情勢の変化により輸出は減少していきました。

■ 第二次世界大戦後、日本は廃墟の中から立ち上がるため食料生産が優先され、終戦直後の荒茶の生産量は2万トン台前半と明治20年頃の水準まで落ち込んでしまいました。昭和25年(1950)から徐々に生産が増え始めて昭和29年(1954)には荒茶の生産量が6万トン台まで回復して輸出量が1万7000トンまでになりました。しかしながらし昭和40年(1965)になると中国、台湾などの進出によりだんだん減少していきました。1960年台になると高度成長と高級志向がトレンドになりお茶の国内消費量が増え続け、輸出は更に減少していきました。昭和41年(1966)には緑茶の輸入量が初めて輸出量を上回りました。昭和50年(1975)にはお茶の生産量が10万5500トンに達し過去最高を記録して茶業界は活況にあふれました。現在では生産量は9万トン前後、消費量10~11万トンに落ち着いておりますが近年、緑茶の世界的ブームによりやや増加をしてきています。1980年以降は昭和57年(1982)に缶入りのお茶が開発販売され、平成2年(1990)にはペットボトルのお茶も販売され、平成8年(1996)にはペットボトルの小型化が進み、平成19(2007)には250万キロリットルとなりわずか10年で5倍となっています。近年、緑茶が1万から1万5000トン、紅茶が1万5000トン前後、ウーロン茶が2万トンで合計約5万トンが毎年輸入されています。実に日本の茶の総生産量の約半分に当たります。この輸入茶の殆どは茶系飲料の原料になると考えられています。ペットボトルのお茶もライフスタイルの変化などにより、簡単に飲めるお茶として確固たる地位を築いてきました。緑茶もティーバッグやインスタントのパウダー茶などはじめとした加工品に業務用は特にシフトしてきています。最近はお茶の成分のカテキンを使った特定保健飲料や日用品の開発も行われています。また今後の生活にあった品種の改良とさらなるお茶製品の開発が待たれます。

お茶の生産について

お茶はツバキ科の常緑樹です。茶の樹は10月頃になると白い花を咲かせます、やがて花が散り残された子房は毛に覆われて越冬し、春とともに成長して夏頃には成熟した種子になります。しかし茶栽培では葉 以外に栄養分の消費を防ぐために花や実をつけさせません。葉が摘み取られるのは1年に3回くらいで一番茶では4月の下旬から5月中旬頃まで、二番茶ではその後40~50日後の6月下旬から7月上旬に伸びた新葉を摘み、3番茶は更に30~40日後の8月初旬頃摘みます。 苗木から育てて一人前の茶園になるまで約5年かかります。茶の樹が威勢のいいのは7年~10年くらいです。茶樹は施肥したり雑草を取ったり敷き草をして防寒対策し大事に育てられます。一番茶の芽生えの頃は良く霜の被害が有ります俗に言う(遅霜)です風のない晴れた日の明け方に良くあります。その為防霜対策として防霜ファンが取り付けられています。

【茶の栽培の北限について】

チャはもともと原産地が亜熱帯ですので寒さには通常弱い植物です。お茶の栽培が経済ベースで採算がとれる北限は太平洋側は茨城県大子町と日本海側は新潟県村上市を結んだ線が北限になります。栽培の北限は青森県黒石市になります。

【一番茶、二番茶とは】

茶の樹の冬期は休眠状態になっていますが寒い時期を通り過ぎる3月頃になると気温の上昇と共に茶芽がふくらみ伸びてきます。そして黄緑色の新芽が伸びて一葉、二葉と開き始めてきます。静岡県では4月下旬~5月上旬にかけて摘採されるのが「一番茶」です。一番茶を収穫した後2週間位してまた新しい新芽が出てきます。一番茶の収穫後45日ぐらいで「二番茶」がとれます。品質の面では「一番茶」の方が上になります。秋から冬の冬眠期を経て樹の中に十分蓄えていた栄養分が一気に「一番茶」の新芽の為に消費されるからです。うま味の成分のテアニンが「二番茶」の3倍以上有りますのでおいしいわけです。お値段も「一番茶」の方が高いです。二番茶は短期間で急成長するため一番茶ほど「うま味」の成分は少ないですが盛んな太陽の熱を浴びて成長するのでカテキンとかタンニンが多く含まれています。

静岡茶について

【静岡茶はなぜ優れているか】

静岡県の茶園の面積は17,100ha(日本全体の40%)で荒茶生産量は30,800t(日本全体の38%)で茶の生産はダントツです。もともとチャの樹は亜熱帯原産で温暖な気候を好みます。しかし極端に暑い地域では茶の生産が多いですが品質が極端に落ちます。かたや寒冷地での生産はもともと亜熱帯原産のチャの樹にとっては寒さに弱く凍霜害を受けやすく生産が安定しません。チャの樹の栽培に適した処は年平均気温が14~16℃の範囲で冬の最低気温が-5℃程度に収まる処とされています。また年間の降水量が1,500mm以上で特に3月~10月の生育期間に1,000mm以上必要とされています。これらの条件の気温と降水量とも静岡県の一部を除いて殆ど当てはまっています。静岡県は気象の面でも優位な立地条件になっています。また静岡県は茶の栽培の歴史が長く今まで多くの人たちが築いてきた優れた栽培技術のノウハウや多くの優秀な栽培管理の機械や製茶機械のメーカーが有ります。また荒茶の仕上げ加工業者が約600社もあり全国に向けての一大集散基地となっています。

【静岡でも紅茶作っている】

日本で紅茶が作られたのは明治7年(1874年)でした。その頃は生糸とともに重要な輸出品でした。世界の需要はその頃緑茶から紅茶に移りつつ有りました。当時日本政府は中国人技術者をよんで国産紅茶の製造の指導に当たらせました。それから輸出用に紅茶は生産されるようになりましたが、もともと日本の紅茶原料の茶葉は中国種の系統で紅茶の原料には向かない品種でした。かたやインドやセイロンの紅茶原料はアッサム種という品種で紅色が濃く香りの非常に強い茶葉で日本の紅茶より優れ太刀打ちできませんでした。そこで日本政府は日本に適した紅茶の原料のための品種の開発をはじめました。昭和10年頃に「べにほまれ」という優良品種ができました。その後中国種とアッサム種を交配して「べにひかり」、「べにふうき」など育成されましたが昭和30年代には8,500トンも生産されましたが海外との価格競争に敗れ、昭和40年代の半ばで終わりました。現在少しですが国産紅茶として生産消費されています。

お茶の気象

【茶の凍霜害について】

茶の樹の原産地は亜熱帯です。従ってもともと寒さには弱い性質があります。日本で栽培するのには気候とうまく向き合っていかなければ被害が出ます。茶芽の耐寒性は厳寒期はそれなりにあり、-6℃くらいは耐えられますが、春から新芽が発達して水分を多く含むようになるとだんだん寒さに弱くなり-2℃で凍霜害を受けます。日本の上空に寒気が流れ込み高気圧が覆い、風のない朝方には放射冷却現象がおこり非常に冷たい霜が新芽や茶葉におります。霜に当たった新芽は組織が壊死して茶色に変色していまいます。もちろんお茶の品質の低下は免れません。そのために冷たい空気を撹拌するために茶畑の各隅には大型の防霜ファンが設置されています。

【チャの気象災害】

チャの気象災害には寒害、凍霜害、干害、湿害、雪害、潮風害など有ります。干害は雨が降らない水不足で、湿害は長雨などで排水が悪い場合、根腐れを起こす事などです。潮風害とは台風の通過などで非常に強い潮風が吹き続くことで葉が傷んだり塩害が発生することです。主に九州から東海の沿岸部で起きることがあります。また最近は温暖化の影響で長期間雨の降らない干害が頻繁に起こるようになりました。チャの樹にとって一番深刻なのは凍霜害です。一番茶の摘採の直前に低気圧が通り過ぎた後、寒冷な高気圧に覆われると発生しやすくなります。凍霜害は-2℃以下になると発生して新芽が壊死して枯れてしまいます。この時期夜間に晴れて雲がなく、風が弱い時はチャにとって大変危険なサインです。だいたい八十八夜を過ぎると遅霜の被害はなくなります。

凍霜害を防ぐ方法には、茶樹を被覆する被覆法、大型の扇風機で風をおこす送風法、茶樹に水をまく散水氷結法が有ります。この中でも現在一番普及しているのは「送風法」です。1970年代にミカン園で実用化されていた「防霜ファン」を茶園用に改良されて全国に広まっていきました。防霜ファンが上層の暖かい空気を吹き下ろすことにより、茶株面付近に出来た冷たい空気の層を撹拌して温度を上げます。防霜に一番効果のある散水氷結法は茶葉を氷で包み0℃以下にならないようにする方法ですが、大量の水の確保や排水設備の確保などむずかしい課題が多く、あまり普及していません。